以下の文章は仙台市博物館で行われた「斬った者と斬られた者」の講演内容をまとめたものです。。


今日は「斬った者と斬られた者」という題で伊達騒動についてお話しをいたします。

ここで言う「斬った者」というのは原田甲斐宗輔・「斬られた者」とは涌谷伊達家の伊達安芸宗重という人物を指します。

 伊達騒動とは別名、寛文事件ともいわれる事件で仙台藩伊達家のお家騒動として取り上げられるのですが、そもそもは
原田甲斐という伊達家の奉行(家老)が伊達安芸を斬った、いわゆる刃傷事件なのです。

「樅の木は残った」という小説にも描かれましたが、あの内容が「伊達騒動の全てなんだ」、と多くの方々はなんとなく
思われるでしょうが、確かに事件そのものはきわめて衝撃的でありますが、伊達騒動というのは、実はそれほど簡単な事件
ではないのです。

 クライマックスがあのように派手な刃傷事件で終わるのですが、そもそも事件のきっかけというのは万治三年(1660年)
3代目仙台藩主伊達綱宗が、今風の表現でいえば素行不良 不行跡によって幕府から隠居を命じられたことに端を発しております。

但し、綱宗への隠居命令というのは幕府側が一方的に「お前は素行不良だからやめろ」と命令したわけではなく、飽くまでも
仙台藩の重臣達が「俺達はもうこんな殿様には仕えてられないので、やめさせてください」という、いわば家臣達
と親族大名
(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名による
リコ−ル運動から起きたものでした。

事件の重要な発端の一つ目として、伊達騒動とは綱宗の隠居事件がスタ−トだったのです。

綱宗隠居については、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士(母親同士が姉妹)の関係にあり、仙台藩と朝廷が結びつく事を
恐れた幕府が関与していたという説もありますが、小説などで描かれる一部の人間が事故欲のために綱宗を隠居に追い込んだ
とは考えにくいところもあります。
 

綱宗の隠居に伴い息子の亀千代が4代目藩主となるのですが、そのとき亀千代がわずか2歳であったため、藩政を切り盛りする
力はありませんでした。

そこで、後見となる人が必要となり、誰にしようかと捜したところ、伊達政宗の一番下の息子が生きていました。
それが伊達兵部宗勝であり、もう一人三代藩主綱宗のお兄さんにあたる田村宗良も適任ということでこの二人が亀千代の
後見人になったわけです。

 そういう状態のもとに仙台藩の新しい政治がスタ−トしました。

ただ、政治を行う上で殿様が頂点に立って、「これは殿様の命令です」となれば一言いいたいであろう家臣もなんのかんと
いいながらも、まずは納得したのでしょうが、それが藩主の背後にいる後見人からの言葉だとなると家臣の方からも当然
なにかと文句も言いやすくなり、その結果として、いろいろと不平不満も出てきたということなのですね。

そういう仙台藩内のごたごたが表面化するのが寛文5年(1665年)に起きた、領主の土地(領地)争いだったわけなのです。
現在の登米市を治めていた伊達式部宗倫と涌谷の伊達安芸という人物の間で所領をめぐる境界争いが起きました。

 結論めいたことを申しますと、普通家臣のこういった領地の争いの裁定というのは藩主の政治能力さえあれば、そのまま治まる内容
なのです。

ところが、藩主がまだ一人前でなかったということと、後見人の一人伊達兵部の評価というか彼の行政手腕が芳しくないという
問題もありまして、裁定に不満をもった伊達安芸が、あろうことかそのお裁きを幕府にゆだねてしまうわけです。
まあ、登米の伊達式部は伊達兵部の甥にあたるということも、伊達安芸にとっては裁定が正当性に欠くと信じさせる原因のひとつ
だったのでしょう。

 私から言わせてもらうなら、問題の本質は「どうして仙台藩だけで事を治められなかったのか」とうことなのです
統治能力さえあれば、ああいう事件に発展しなかったであろうし、不幸にして事件が起きたとしても仙台藩の中だけで解決できた
はずなのです。
少なくとも幕府の役人の前での自分たちの醜態は見せないで済んだし、仙台藩領内の内輪もめでしかない争い
について、幕府という中央政府の裁定を仰がなくてならないような事件には発展しなかったはずなのです。

そのお裁きの課程で、伊達兵部の配下でいろいろ政治を切り盛りしていた原田甲斐という男が伊達安芸に斬りつけた場所が、
酒井
雅楽頭忠清という幕府のお偉いさんの屋敷であったため、刃傷事件勃発と同時に「何ごとがおきたのだ」と酒井邸の家臣
がわっとやってきて原田甲斐を斬ってしまうし、同席していた柴田外記もその時のどさくさで斬られてしまったのです。

伊達安芸は原田甲斐に斬られる、原田甲斐も酒井清忠の家来に斬られてしまう結果となり、事件の当事者は双方とも死んで
しまったのです。

この事件の舞台を現代に置き換えてみますと、内閣の閣僚の家で都道府県知事なり役員クラスがどたばたを犯して、
拳銃で仲間を撃ってしまったとか刃物で刺してしまったということをイメ−ジしていただければよろしいと思います。

ところで、斬ったほうの原田甲斐ですが、原田家というのはもともと伊達家の重臣でございます。
一方伊達安芸の方はと申せば少々複雑な家柄といえます。

仙台藩というのは非常に広い土地を有しており、宮城県全域と岩手県の約3分の1を含む多分、全国的に見ても面積だけ
で比較すれば一番広い藩でないかと思います。

仙台藩の政治的運営の一番の特徴は、重臣達に対して単なるお給料を与えるのではなく、領地を与えるという独特の
やり方をとっておりました。いわゆる「地方知行」と言われるシステムです。
 

仙台領は非常に広い領域を有するため、藩主一人で全域を治めるのが難しい。
「この際、現場のことは現場も任せた方がよい」ということで、仙台藩の祖である伊達政宗は重臣達を藩内の拠点と
呼ばれる場所(中世から戦国時代にかけて古い町や城があったところ)に配置したのです。

有名な処では白石には片倉小十郎が置かれましたし、亘理には片倉小十郎と並んで政宗の腹心だった伊達成実が
入ります。

そんな風に政宗時代からの古い重臣が要所要所に配置されたわけです。 

地方知行において主要領地すべてに政宗の息がかかった家臣であるとか、伊達家に非常に近しい家臣団が形成されて
いればよかったのですが、事態はそう簡単ではありませんでした。

伊達政宗という侍はご存じの通り、戦国に覇を唱え南奥羽を統一したのですが、その統一の課程で滅び去った家が
何軒もあるわけです。
そのせいか仙台藩および伊達政宗に非常に恨みをもっている地域もあるのです。
いろいろな家臣が混在するなかで、自己の領地を有効に治めるためにも、もともとそこの領地を持っている人の
権利だけはちゃんと保証してあげるということをしながら家臣を増やしていったのです。

そんな自分への恨みを持つ人間も自分の家臣として従属させるには、何か大きなうまみを与えないとなかなか伊達家に
従いにくい、事実従わない人たちも多い状況だったのです。
 

斬られた方の伊達安芸は涌谷伊達家で、「伊達」を名乗ってはおりますが、もともと伊達家の人間ではありません。
かつて亘理を治めていた亘理家という、伊達家と肩を並べるほどの大きさではありませんが、一介の地方の領主だった
のです。

ただし、伊達政宗の曾お爺さんの頃に伊達家の方から養子に入ったりしてますので、伊達家との血縁関係は若干ですが
あったのです。

それでも、その後の爺さん父さんの代では血は入ってませんでしたから、ほかの家臣に比べると血のつながりは薄く
なってきてたのです。

そんなこともあって、政宗の息子二代忠宗の代になると、再び自分の子供達を家臣の家に養子に出して、藩主の家と
家臣の家とを血で繋ごうとするわけです。

登米の伊達家というのはもともとは白石を治めていた「白石さん」なのです。その白石さんのところに片倉小十郎
が入りましたので、登米に飛ばされるわけです。そして、忠宗の息子の宗倫(むねとも)という人物が登米の
白石さんのもとに入ったため、伊達を名乗るようになります。

涌谷の伊達さんはもともと「亘理さん」なのですが、亘理には伊達成実が入るので、亘理さんは涌谷に飛ばされました。
そして、「お前は俺達の重臣だから伊達の姓を名乗ればいい」と言われて伊達を名乗るようになり「涌谷伊達家」
となるのですが、
前に話したようにもともとは伊達家の血は非常に薄いわけです。

涌谷伊達家には忠宗の息子が養子にも入らなかったので、多分数少ない伊達家の子供が入っていない家臣だったのです。
 

寛文事件で領地争いをする両家は「伊達家の血が入った登米伊達家」と「血の入らない涌谷伊達家」の対立であったというのも、
不幸な事実というか、政宗からすると手痛いしっぺ返しだったといえるかもしれません。
 

話は戻りますが、伊達騒動の一方の当事者である原田甲斐は柴田郡の船岡というところに家を構えておりました。
までも樅の木があることになっていますが、あれは当時のものではありません。
あとから「樅の木は残った」にちなんで樅の木が植えられただけで、原田甲斐が植えた木ではないのですけど・・・・。

伊達騒動に関しては非常にはがゆい部分が多いのですが、それのことは、正直に申せば「真相が分からない」
ということなのです。

真相というのはそもそも刃傷事件の本当の原因が分からないと言うことなのです。

究極の疑問は原田甲斐がなぜそこで刀を抜いたのか、なぜ斬ったのかといことが現段階では全く不明であるという
ことなのです。

伊達安芸を切った理由は原田甲斐の心の中でしか判らないということなのです。
原田甲斐の日記があり、「明日こそ奴をやってやる」みたいなことでも書いてあれば、ヒントにもなるのでしょうが、
今現在そのような資料は一切残っていないのです。

不思議なことに斬られた涌谷伊達家の方には若干ですが資料が残っているのです

原田家は一家断絶ということもあって、資料の多くが処分されたと思うのですが、残念ながら事件の一方当時者である
原田甲斐に拘わる資料は残っていないのです。

事件の真相が闇の中ですので、後から語られる際には、あることないことが加わってノンフィクションがフィクションに
なっていくのです。

伊達騒動は事件が起きて40年くらい経ちますと、まず読み本(小説)となって世に出てきます。
そして、その読み本はすぐさま発禁処分となります。
発禁処分になるだけに、印刷物は殆ど残っておりません。
ところが色々な村とか町とかに行きますと手書きの筆写した、伊達騒動物語的なものが沢山残っております。
それだけ、当時の人はこの手の「斬ったはった」の物語が好きだったということなのでしょう。
とある本の場合、最後のペ−ジに「読み終わったら貸し出し者に返すこと」という注釈が入っていたほど人気が
あったということなのです。

そして100年もたつと「もう時効でしょう」といわんがばかりに、歌舞伎あるいは人形浄瑠璃というようなものに姿
を変えて「伊達騒動100年の眠り」から覚めることになります。
     

但し小説の時は「伊達家」とか「原田」とか具体的な固有名詞が出ておりましたが、歌舞伎などになると、
さすがにそこまで出すのははばかれるというわけで、舞台を事件から300年ほど前の南北朝時代に移し、
人名役名も全て変更しております。

原田甲斐は仁木弾正という人物に姿を変え、伊達安芸は渡辺外記左衛門という名前に変えて「伽羅千代萩
(めいぼくせんだいはぎ)」という名前で上演されたのです。
歌舞伎では仁木弾正が鼠に化けて、政岡の手から連判状
を奪い取り、御殿の床下で警護をしていた荒獅子男之助(あらじしおとこのすけ)の鉄扇を逃れて消えていく通称
「床下(ゆかした)」とか
山名宗全(酒井雅楽頭)の妻栄御前(さかえごぜん)が仁木弾正の妹八汐と結んで
幼君鶴喜代を毒害しようとするのを、鶴喜代の
乳人(めのと)政岡(まさおか)
が自らの息子千松の犠牲で守り抜く「御殿(ごてん)」の場など当時の観客を狂喜乱舞させる場面の連続で大ヒット
したものでした。

この芝居のポイントは小説の時でも同じですが、「伊達兵部と原田甲斐」そして「伊達安芸」は、どちらが善で
どちらが悪かという
ことが主題とされたのです。

どんな場合も、処罰された人とか事件を犯した人は「悪」なのだから善が悪を懲らしめるというお話にしないと面白く
ないと思ったわけです。

残念ながら犯人役としては、死んでしまたったのだけれど刃傷事件を起こした張本人の原田甲斐を「悪」としましょう。
そして次に悪役原田甲斐の親玉である伊達兵部もまた悪と・・・・。

次に斬られた伊達安芸は「哀れ忠臣」というわけで「善」としたわけです。
したがって、原田甲斐は歌舞伎の世界では最大の悪役として描かれます。

お芝居の世界では渡辺外記が斬りつけられると、息子達が助太刀に来て仁木弾正を羽交い締めにして見事本懐を
とげるというハッピ−エンドに仕上げております。

実際には、伊達安芸の息子は国元にいたので父の死は地元で知ることになるのです。そのへんがすごく
フィクションなのです。

原田甲斐イコ−ル悪として長らく世に定着してきた説に対して、学問の世界からは少しずつ疑問が起こって
おりましたが、確実な資料がなければ善悪の断定ができないため、伊達騒動に対する明確な答えは出せませんでした。

それに対して、学問ではなくて小説の世界でというわけで、原田甲斐の評価を180度変換させたのが山本周五郎の
「樅の木は残った」だったのです。

山本周五郎は極端なまでに原田甲斐を善に引っ張ってきたので、今度は「原田甲斐は一体逆臣なんですか、それとも忠臣なんですか」
という、全ての疑問がそこに行くような風潮が出てきたのです。

私の意見ではありますが、原田甲斐はやはり悪だったと思うのです。
幕府の役人の屋敷で刃傷事件など起こしてはダメだったのです。
自分が何をすればどうなるかを判らないほど無能な人ではないと思うのですが、あの事件における彼の対応はよく
わかりません。

 
福井玄享(ふくいげんこう)という当時江戸にいた医者で、その後仙台藩に使えることになる人物が刃傷事件の一報
なりを聞いて、その内容を書いた手紙が残っております。

その中で、「甲斐がきちがへた」(気ちがえた)と書いております。
当時の人はそう思ったのでしょう。そんなことをするなんて気が狂ったとしか思えないわけで、原田甲斐の行為は
当時の人達からは狂ったとしか見えなかったのでしょう。

甲斐の心の中は知ることはできません。ただ、当時の人々の目からは甲斐は「気ちがへた」か「乱心したか」としか
見えなかったのでしょう。

言い訳するにしても当事者は死んでしまったので、もし生きていて弁明の場を与えられれば、また別な結果となったか
もしれませんが、斬った当事者も訴えて斬られた人もみんな殺されたので真相はつかめなくなったわけです。

反対に斬られた伊達安芸の手紙は残っております
斬られる何日か前の手紙には、幕府に持ち込まれた領界争いの裁きは伊達安芸の方に有利に進んでいたようなことが
書かれております。

手紙には「原田甲斐がいろいろな不始末をやらかした。甲斐が不始末をしたというからには親分の伊達兵部もタダ
では済まないであろう」という内容のことが書かれております。

だから「こっちの勝ちはみえている」みたいなニアンスの手紙なのです。

ただこれは伊達安芸の見方によって書いた内容ですから、100%鵜呑みにできませn。本当はこれに反論する資料
があればいいのですけど、残念ながらないのです。
現在残っている資料から見ると状勢は断然伊達安芸が優勢で、
原田甲斐が何か不始末をしたことがわかります。
その不始末とは原田甲斐の奉行たちへの挨拶がうまくいかなかったと書いてあります。

部屋に入る時の作法を間違えたとか、礼をしなかったとかのたぐいではないかとはおもうのですが、そんな失敗ごと
があって情勢はこちらに有利であると伊達安芸が思っていたということがわかります。

詳細はわからないのですが、伊達安芸側に有利な状況だったため、原田甲斐が思い余って刃傷に及んだと考える
のがひとつ、もう一つは山元周五郎が考えたように伊達家乗っ取りに対して云々ということも考えられるのですが、
多分それはあり得ない話だろうというのが最近の定説となっております。

伊達騒動の有名なエピソ−ドとして、伊東七十郎という人物の話があります。彼は伊達兵部殺害を企てた人物と
言われております。

寛文7年「仙台目付」という江戸から来た監視役を接待する際、座席配置でもめたという記録があります。

座席配置について伊東らが不満を抱き、それが遺恨となって伊達兵部を殺そうとするのですが、そんな内容に
通じる原田甲斐の覚え書きが残っております。

これは家臣の序列について、いろいろ相談して書いている内容なのですが、伊達家には一門・一家・準一家
といって、いやなものですが「家の格」というのが存在したのです。

家格のほかに役職の格というのがあります。また給料が高い低いもあるのです。
ところがそれが全部一致しないのです。高い役職についていれば給料もよくて、領地も沢山持っていると
なればいいのですが、家の格はそんなに高く
ないのだけど、役職はすごくいいとか、この人この仕事の割に給料安いとか、格差がそれぞれあるものなのですね。

それで、伊東七十郎がイチャモンを付けた席次なるものも、彼の視点に立つと忠臣七十郎は原田甲斐・伊達兵部の
横暴な政策に対して文句を付けましたということがいえるのですが、あえて伊達兵部側の立場に立ってみれば、
江戸から来るお目付さん達をご接待するときにお決まりの席順で本当にいいだろうか、と考えたとしても不思議
はないのですね。

それを兵部達が皆に相談して決めればよかったのですが、なんの相談もなく決めたから伊東達は怒ったわけです。

この辺は一口には言えない内容のですが、本音と建て前ではないけど、「筋的にはこの席順だけど、今日のはこの
席順にしよう」というのがあった可能性があるのです。

事件ひとつ取ってもいろいろな見方があります。
立場の違う者がみればあるものが善になり、ある者から見れば悪になるわけです。

結論としますと、後に出る小説やお芝居は伊達兵部や原田甲斐を「悪」としました。
山本周五郎はそれをひっくり返して、「原田甲斐は忠臣であったのだ」としました。
歴史学の立場からすれば、どちらでもないのですね。
伊達家の争いごとが幕府に持ち込まれていった、そこで殺傷行為を行った原田甲斐の行為は確かに愚かでは
ありました。

でも、藩の内輪もめを幕府に持っていた伊達安芸もやっぱり、「もう少し考えて行動しろよ」という部分も
あったわけです。

そして、仙台藩の争いごとを仙台藩だけで処理できなかった当時の藩の体質も元をたどれば政宗の時代の行政の仕組みの不完全さに
原因があったと思われるわけなのです。